ひと夏の経験。それはとびきり刺激的な快感を与えてくれることもあれば、思いも寄らない真実の姿をあぶり出してしまうことも…… 。やみくもに身を焦がす前に、まずはテキストから学んでみましょう。

 

今月のBOOKは……

¥2000/新潮社

『夏の噓』 ベルンハルト・シュリンク(松永美穂=訳)
シーズンオフの避暑地でたまたま出会った男女。人気作家の妻を尻目に、事実上の主夫となった作家の男。自分が築き上げてきた家族への愛を失い、かつての恋人と再会するべく旅に出る老女。小さな秘密や嘘をきっかけに人生が思わぬ方向にころがっていくさまを描いた傑作短篇集。

 

「アヴァンチュールの代償」

アヴァンチュール【aventure】。

元々は「冒険」、あるいは「特別な体験」を意味するフランス語だ。けれど日本では、もっぱら恋愛方面における冒険の意味合いを期待される言葉でもある。たとえば、火遊び、不倫、三角関係——。そんな、一瞬で燃え上がるような危うい匂いのする男女の姿には、やっぱり夏の景色が似合う。

15歳の少年と36歳の女性の切なくも残酷な恋愛のゆくえを描き、世界的ベストセラーとなった『朗読者』をはじめ、昏くらい秘密を抱えた男女の姿を描かせたら随一の作家ベルンハルト・シュリンク。彼の短篇集『夏の噓』は、その名のとおり、さまざまな形の「嘘」がそれまでの関係に決定的な変化を及ぼしていく様子を、実に巧みにすくいとる。

 
中でも秀逸なのが「バーデンバーデンの夜」という一篇だろう。主人公は、7年来の恋人がいる劇作家の男。初めて書いた戯曲の初演に招かれたついでに、昔から憧れていた贅沢なホテルにツインの部屋をとり、女友達と浮かれ気分で一泊旅行を楽しんでしまう。とはいえ、セックスはしていない。だから最初から堂々とふるまっておけばいいものを、この男、小心者ゆえか、なんとも中途半端に嘘をつくのだ。それがかえって恋人の疑念を呼び、ほころびを繕うために小さな嘘を塗り重ねる。結果、つじつまが合わなくなり、取り返しのつかない亀裂が広がっていく。うーん、実にリアルな光景!

けれど、ほんとうに清廉潔白かと問われれば——無論そこには後ろめたい「何か」があるのだ。確かにセックスはしていないけれど、親密に体を寄せ合ったり、軽いキスを交わしたりはしている。そもそも女友達のほうは、彼に恋人がいる事実をはっきりとは知らされていない。いうなれば彼は、あくまで安全な立場からちょっとした二重生活を愉しんでいたわけだ。互いの立場を入れ換えて考えられる女たちにしてみれば、その状況はたまったものじゃない。男がそれを「他愛もない遊び」だと強調すればするほど、女は自分自身がないがしろにされたような気持ちになっていく。

 
また、「最後の夏」という一篇で描かれるのは、末期癌に冒され、ひそかに安楽死を計画した老人の顛末だ。仕事人間でこれまで家庭を顧みなかった男が、急に家族全員をリゾートに呼び寄せ、かいがいしく朝食をつくり、妻にスキンシップまで試みる。てっきり無条件に喜んでくれるものと当て込んでいたのに、妻は戸惑い、こんな辛辣な言葉を口にする。「もし今年の夏が本物だったら、いままでは嘘だったことになるわ」——そこには、積み重ねた時間に対する互いの意識のズレが横たわっている。

一方にとっては、ただの思い出として消費されることでも、他方にとっては連続した関係の一部分となりえる。「ひと夏」の定義が同じとは限らない。だからこそ、その関係は危ういのだ。 

 
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PROFILE

倉本さおりさん
1979年生まれ。ライター、書評家。『小説トリッパー 』、『週刊新潮』誌上にて書評コラム連載中。共著に『世界の8大文学賞 受賞作から読み解く現代小説の今』(立東舎)。

 
●情報はFRaU2017年9月号発売時点のものです。

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