冒険でも、暴挙でも、挑戦でもない。56歳で裸の自分を写真集に残すことは、彼女にとっての “必然” だった。

24年前、“エロチシズムの巨匠” ヘルムート・ニュートンとのコラボレーションで、ヌードが100年先も残るアートであることを世に知らしめた彼女が、21世紀の今、肉体と内面に人生という名のアートを携え、ピーター・リンドバーグの前でそのすべてをさらけ出した。年齢を重ねることで、野性味は研ぎ澄まされ、知性は蓄えられ、そして磨かれ…… 。それぞれの写真は、人生を謳歌する大人の女性からの、まるで応援歌のようでもある。

 

“世界一の写真家”
ヘルムート・ニュートンとの出会い

画像1: photo by Peter Lingbergh

photo by Peter Lingbergh

31歳の夏のことだ。短期の語学留学のためにニューメキシコに到着したその日、石田さんのもとに一本の電話がかかってきた。

「ヘルムート・ニュートンが、あなたに会いたいと言っています。今すぐパリへ向かうことはできませんか?」

ヘルムート・ニュートン。石田さんはずっと、彼のことを “世界一の写真家” だと思っていた。当時、日本はヘアヌード写真集ブームで、石田さんのもとにも、写真集のオファーが次々に舞い込んできた。でも、彼女は決めていた。せっかくヘアヌード写真集を撮ってもらうなら、世界一の写真家がいい、と。

「私が、いろんな人にその話をすると、『気でも違ったのか』と呆れられるか、『何をバカなことを。お前ごときをヘルムート・ニュートンが相手にするわけないだろう』と鼻で笑われるかのどちらかでした(苦笑)。でも、私は本気だったんです。

その頃は、仕事を始めて15年ほど経っていたけれど、プライベートもうまくいかず、仕事でも、いわゆる “番手” が下がっていた時期でした。だから、『ああ、もう私の女優としての旬は過ぎたのかもしれない。キャリアを重ねても、年を重ねることで仕事が減っていくなんて、女優って、なんて残酷な仕事なんだろう』なんて思って(苦笑)。

何事にも疑心暗鬼になってしまっていて、精神状態はズタズタでした。もっと素っ裸で生きるためにはどうしたらいいだろうと考えて、出した結論が、世界一の写真家にヌード写真集を撮ってもらうこと、だったんです」

 
流行りに乗じて、安易にヌード写真集を出すくらいでは、当時の精神状態から脱却できるとは思えなかった。そのときの石田さんには、「どうせなら、世界一の写真集を出したい」という強い思いがあった。ヘルムート・ニュートンが撮ってくれないのなら、ヌードになんかならなくていい——。そんな彼女の決意を、どこからか伝え聞いたある出版社の社員が、「石田さんのアイデア、面白いと思います。うまくいくかはわかりませんが、僕がヘルムート・ニュートンに会いに行って、その件、交渉してみてもいいですか?」と申し出てくれた。石田さんは、初めて自分の言葉を本気にしてくれた人に出会えたことに感激しながら、藁わらにも縋すがる思いで、「お願いします」と言った。

それからしばらくして、石田さんは、“ネガティヴな自分を打開する作戦第二弾” として、以前から準備していた短期の語学留学を決行した。写真集のことは、いつ返事が来るかわからなかったし、たとえ世界の巨匠が彼女の申し出を承諾してくれたとしても、実現までにはいろんな煩雑なやりとりが派生するかもしれない。

厳しい中でも仕事を選んでいたこともあり、少し引きこもりがちだった自分を、外向きに変えていくために、まずは、できることから始めよう。そんな気持ちで、ニューメキシコに旅立った。すると、現地に到着したその日に、交渉を申し出てくれた出版社の男性から電話がかかってきたのである。

「ヘルムートが、あなたの写真を撮るから、今すぐ会いたいと言っていると聞いて、本当にビックリしました。ただ、私もアメリカに到着したばかりで、すぐには身動きが取れなかったので、2週間の語学研修が終わってすぐ、一人でパリに向かったんです。

私は最初、写真集を、ダンテの『神曲』のような世界にしたいと思っていて、事前にそのことは伝えておきました。ダンテが描いた地獄、煉れん獄ごく、天国の世界。それらを写真で表現できたら、と。でも、指定されたホテルに着いたら、部屋には、ものすごい量のSMの衣裳や小道具が並んでいて……。相応の覚悟でその場に臨んだつもりの私でも、さすがに尻込みしました。話が違う。ダンテはどうなったんだ? 軽いパニック状態になって、正直、『逃げるなら今だ』って思いましたね(苦笑)」

 
次の日の早朝から撮影が始まった。午前中の撮影は、フランスのシャトーの地下にある、女中部屋のような狭くて暗い部屋で、だった。信頼関係を築く間もなく、言われるがままに衣裳を身に着け、言われるがままにポーズをとった。撮影は淡々と進んでいく。だんだん惨めな気持ちになっていった。

「お昼になって、みんなでランチをとっていたら、ヘルムートが、スタッフとフランス語でしゃべっているんです。彼が何か言うたびに、メイクさんやスタイリストさんが、私のことをチラチラ見る。『あ、これは私に悪態をついているんだな。仕事をしないヤツは飯食うな、みたいなことを言っているんだろうな。よかった、フランス語がわからなくて』と思いながら、ますます気持ちは惨めになっていく……。午後に撮影が再開したときも、その重たい空気は変わらないままだったから、私もぐったり疲れて。『はい、今日は終わり』と言われた途端、涙がバッて溢れて、通訳の人に、『私は、キレイでもないし、若くもないし、スタイルも良くない。あなたはどうして私を撮ろうと思ったんですか?』って一気にまくしたててしまったんです。ボロボロ泣きながら」

すると巨匠は、石田さんの顔も見ずに、何かをボソボソと呟いた。通訳は、「映画を観て、いいと思ったから」とそのボソボソを日本語に訳した。「そうだ、もうワンパターン撮ろう」と、今度はそこにいるスタッフ全員に聞こえるような大きな声で、巨匠は言った。石田さんは内心、「もう無理」と思ったが、スタッフはいそいそと準備を始めた。

「それで、何を撮るのかと思ったら、今度は椅子に座って縄で縛られたんです。その直前まで、疲れて惨めで悲しくて泣いていたのが、今度はそんな悲しみを通り越して、怒りが込み上げてきた。縛られたまま、タバコを口に咥えさせられて、私は一体、ここに何しに来たんだ。悪態をつかれて、惨めな気持ちにさせられて、一体、私は……。そう思いながら、思い切り、タバコに火をつけようとした執事役の男性のことを睨みつけたら、ヘルムートが、『それだ! それだ!』って、バンバンシャッターを押し始めたんです」

 
撮影が終わると、巨匠は優しい声で石田さんに言った。

「これから、どんなに屈辱的なことがあっても、どんなに惨めな目に遭っても、心は毅然としていなさい。いいね」

この日一日、彼は、そのことを石田さんに伝えたかったのかもしれない。

どんな過酷な状態にあっても、心の気高さだけは、失ってはいけないことを——。 

「確かに、“毅然としていなさい” なんてことを、口で言うだけではわからない。そういうつらさを体験してみないと、実感できない気持ちってあるんです。ヘルムートはユダヤ人で、ナチスの迫害を逃れてまだ10代のときにドイツを離れている。どんなときも毅然とした心を持ち続けなさいという助言は、彼のそれまで生きてきた信念と、重なっていたのかもしれないですね。

初日にそんなことがあったお陰で、残りの6日間は、四つん這いで床掃除をさせられようが、手錠をかけられようが、ラップで全身をグルグル巻きにされようが(笑)、ヘルムートに全幅の信頼を置いて、乗り越えられました」
 

画像2: photo by Peter Lingbergh

photo by Peter Lingbergh

出来上がった写真集『罪』は、それまでのヘアヌード写真集とは別格のオリジナリティと芸術性を持ち、さらにSMというセンセーショナルな話題も手伝って、30万部の大ヒットとなった。それまでは、世間が怖くて、人の目を恐れながら過ごしていた石田さんが、“少しでも、強い自分になるために” と挑んだ賭け。この撮影を乗り越えたことで彼女は、“極限状態でも毅然とする強さ” を手に入れた。

「それともうひとつ。心の底から確信できたのが、本気でやりたいことがあれば、きっと誰かが繫いでくれて、最後にはそこに辿り着けるってこと。私は、自己顕示欲を満足させたいとか、お金が欲しいとか、世間に認められたいとか、そういう欲望とは違うところで、ヘルムート・ニュートンと一緒に “作品” が作りたかった。それは、私が生きていくために、自分がやっているこの仕事で代表作を作ることが、絶対に必要だと思ったからです。

私は、20代のときに一度結婚しているんですが、結婚生活は長くは続かなかった。30歳になると同時ぐらいに、人間不信になって、『このままじゃダメだ。でも、それなら私は、40代、50代にどうなっていたいの?』と自問自答したとき、『死ぬまで仕事を続けたい』と思っちゃったんです。

結婚して、子供を持って、誰から見ても幸せな家庭を築く、っていう選択肢もあったと思う。当時は、そういう家族を見るだけで涙が出ちゃうから、目を背けていたほど(笑)。それくらい羨ましかった。もちろん、仕事も家庭も、両方あれば最高だし、頭では、家庭を優先した方が幸せだってわかっていました。頭では “女としての幸せをとるべき” と思っていても、私の場合、心が動かなかったんです。私は昔からそんなに器用じゃないから、家庭と仕事、両方うまくやっていくなんて無理だって思ったし。だから、神頼みするときは、『一般的な女としての幸せは犠牲にしますから、どうか、死ぬまで仕事させてください』って、毎回祈ってましたね」

心の芯からの願いは、きっと誰かの心に届く。そして、誰かの心を動かす。誰も本気にしなかった世界一の写真家との仕事。それも、「面白い」と言ってくれる人が現れて、終いには巨匠の心も動かした。撮影のときも、人生で、こんなに惨めな気分になったことはないと思うほど惨めだった。でも、ボロボロになってはじめて、自分の中にある人間の尊厳のようなものが、目を覚ました。一枚の写真が、女性の生き方を写し出す、アートになった。それは、結局、石田さんがこの先女優として生きていくために必要な経験だった。だから、自分が揺るがなければ大丈夫。かならず、いつか行くべき場所に導かれる。ヘルムート・ニュートンとの仕事を通して、世の中から、答えをもらった気がした。

そんな幸福な出会いから十数年。40代の石田さんは、もう一度、巨匠との写真集を出す計画を立てていた。最初に、交渉役を買って出た出版社勤務の男性を交え(その人は、『罪』のときに、誌面に名前を記すこともなく、報酬を受け取りもしなかった)、撮影時期などを詰めたところで、思いもかけなかった訃報が舞い込んだ。巨匠の死——。突然の心臓発作。83歳で、エロチシズムの巨匠は逝った。

 

PROFILE

石田えり Eri Ishida
1960年11月9日生まれ。熊本県出身。中学3年生の夏に上京、多くのオーディションに挑戦するも、16歳まで100本近く連続で落ち、「これでダメなら熊本に帰る」という覚悟で挑んだ映画 『翼は心につけて』のオーディションに合格。骨肉腫に侵されるヒロインの役でデビューした(監督は黒澤明の愛弟子の堀川弘通)。1981年公開の映画『遠雷』(根岸吉太郎監督)で数々の賞を受賞。女優として映画、ドラマ、舞台と幅広く活躍、'93年にヘルムート・ニュートンが撮影したヌード写真集『罪ーimmoraleー』が大きな話題に。30代より、女優業の合間に、たびたび海外へ語学留学、演劇修行などに出向く。ファションフォトグラファーとして'90年代にはスーパーモデルブームの火付け役とされ、72歳の現在も世界の第一線で活躍するピーター・リンドバーグがフランス・アルルで石田さんを撮影した写真集『56』¥8800/講談社 は、12月上旬に発売予定。

 
※FRaU2017年11月号より一部抜粋

●情報は、FRaU2017年11月号発売時点のものです。
Text:Yoko Kikuchi

 
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画像1: 石田えりを変えた、ヘルムート・ニュートンの言葉 画像2: 石田えりを変えた、ヘルムート・ニュートンの言葉 画像3: 石田えりを変えた、ヘルムート・ニュートンの言葉

 
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